INTERVIEW

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失敗しても良い、経験を経て世界は拡がっていく。DataRobot Japan 坂本さんに学ぶグローバルで自由なマインドセット

坂本康昭 プロフィール

 

 

DataRobot Japan

DataRobot データサイエンティスト。

2005年にテキサス大学にて認知科学博士号取得。

スティーブンス工科大学にて教授、データサイエンスプログラム立上げメンバーとして貢献。SNS上の情報共有に関する研究を含む50を超える学術論文を出版。

2015年帰国後、外資系大手保険会社にてチーフサイエンティストとしてデータサイエンス部門の立ち上げ及び AIの応用に従事。

2017年より米国発DataRobot社のデータサイエンティストとして金融、ヘルスケア、製造など様々な業界のお客様をサポート。

アメリカのデータサイエンス黎明期を知るデータサイエンティスト。

 


 

 

2021,4,21

 

 

 

 

 

「今、アメリカで最もホットでセクシーな職業」と言われるデータサイエンティスト。

昨今はビジネス的な側面ばかりが注目されるデータサイエンティストですが、それだけではありません。

例えば、世界の難病を救うため医療データを検証し、医療関係者たちへバトンをつないでいくというのも、彼らデータサイエンティストの仕事です。

世界中のデータサイエンティストたちは、世界を救う一助となるべく 現在もデータを集め、モデルをつくり、分析と改善を繰り返し続けています。

 

コロナウイルスが蔓延し始めてから1年が過ぎた今も世界は未曾有の状況下です。

医療関係者や様々なプロフェッショナルたちが それぞれの持ち場で闘ってくれていることに感謝をしたいと思います。

 

 

 

 データサイエンス というクリエイティブな仕事をしている人たちに引き込まれた私たち「はたらくことメディア」が2021年4月の新年度オープニングにお送りするのは、アメリカのデータサイエンス黎明期にスティーブンス工科大学でデータサイエンスプログラムの立ち上げに携わった唯一の日本人である、DataRobot Japan株式会社 データサイエンティスト 坂本康昭さんのストーリーです。

 

 

アメリカのデータサイエンス黎明期

 

 

ー坂本さんがスティーブンス工科大学でデータサイエンティストを育てていた頃は、

データサイエンスの黎明期と言えると思いますが当時の立ち上げはどのようなものでしたか?

 

 

坂本 (以下 S) 

2005年にスティーブンス工科大学に入り、確か1年後ぐらいにデータサイエンスのプログラムを立ち上げようとなりました。

 

「データサイエンス」という言葉は、1980年代に統計の先生が「統計【statistics】」といっても生徒があまり集まらないことから、伝わりやすくするために「私たちはデータを扱うサイエンスをしている=データサイエンス」と呼び出したとところから始まりました。それまでは「データサイエンティスト」という言葉はアカデミアだけで使われていて、ジョブディスクリプション(職務概要書)でも データサイエンティスト という言葉が使われ始めたのは、2008年頃だったと思います。

初めて「データサイエンティストを雇います」と募集したのは、確かLinkedinでしたね。

 

 

そしてその頃、データサイエンティストの需要が増えていくからデータサイエンスを学べるプログラムを作ろうということで、その立ち上げメンバーの一人になりましたが最初は本当に試行錯誤でした。

まずは学術ぽいものを作りましたが、卒業しても「ビジネス社会で全然活躍できないよ、この人たち」ということが起こってきました。

これではダメだという事で、実際に雇用先となるような会社の人達と一緒に実践的なプログラムを作っていきました。

 

そこからは技術的なところは本当に最小限にして、

 

“ どうやってビジネスの中で体制をつくるのか”

“どういう人をどうやって説得しなければいけないのか”

“レポーティングの仕方は? ”

 

などビジネス的な要素を含めたプログラムにしていきましたね。

 

 

 

 

ー優れたデータサイエンティストに不可欠である「いかに使わせるか」という所ですね。

 

 

S   そうです、データサイエンティストの仕事のなかでコンサルっぽい事をやっている部分ですね。

マネジメント系の先生達は「どうやって組織の人たちを動かすのか」ということを研究している人たちもいるので、そういう人たちにも入ってきてもらいました。

 

初めはデータサイエンスっぽい人達ばかりでプログラムを作っていたのですが、それじゃうまくいかないんですよ。

色んな人を織り交ぜてつくることで成果がでる、「教える人にもダイバーシティが必要ですよ」ということです。

 

 

ビッグデータといってデータがたくさん集まってきてはいるけど、会社が何をやっていいかわからないという

「データはあるけどどうしよう」そんな時代でした。

 

それを いちからみんなで作り上げた感じでしたね。

 

 

 

 

 

 

—ダイバーシティであるからこそ、より実践的で本質的なものができた、という事ですね。

その頃は、アメリカで他にデータサイエンスを教える学部は無かったのですか?

 

 

S    確かノースキャロライナ大学がSASとコラボして作ったのが一番はじめだったと思います。

私がいたスティーブンス工科大学は割と小さい大学ではありますが、データサイエンスのプログラムを作り上げたのはわりと早く、アメリカでも最初の5校に入るくらいだったかと思います。

 

 

 

ー データサイエンティストは稼げる仕事だと日本でも注目されていますが、当時のデータサイエンティストたちの就職時はどうでしたか?

 

 

S 当時、卒業後98%の生徒が仕事がみつかるという状況でした。

その生徒たちの平均年収が日本円で800万ぐらいですね。

学部を卒業してプラス2年でその金額だとアメリカでも悪くないのかなと思いますね。

 

最近日本に入ってきたAIを提供する会社があるのですが、2010年頃にはそこがインターンが一番稼げる会社として有名で、当時インターンで1000万円くらいでした。FacebookやGoogle、Amazonも当時から高給を出していて、就職の時点で1000万円以上の方もいましたね。

だから、学生達はそれを目標にしていました。

 

 

 

 

ー インターンで1000万とは、当時のアメリカのデータサイエンティストたちへの期待値がうかがえますね…

一方その頃、日本ではどうだったのか気になります。

 

 

S 実は2013年頃、現在滋賀大学でデータサイエンスを教えていらっしゃる河本先生が日本から訪ねてきてくれたんです。

河本先生は当時、大阪ガスでデータサイエンスのチームを作っていて、大学ではどのように教えているのかなど、コアメンバー5人くらいで河本先生を囲み意見交換のディスカッションをさせていただきました。

 

 

当時の日本にも、データサイエンスの実践の土台をつくっている方たちがいたんです。

トラディショナルな日本の会社を説得するため、 外に出て日経のデータサイエンスオブザイヤーを取ってきました」

というアクションにつなげ、やりたいことに向かっていくという河本先生の推進力がすごいですよね。

今の日本では、そんな凄い人たちがデータサイエンスを教えているんですよ。

 

 

 

河本先生とはアメリカ時代からのお付き合いなんですね、ご縁を感じます。

坂本さんは現在日本で働いてらっしゃいますが、それだけ長くアメリカにいたのに 何故日本に戻ろうと思われたんですか?

 

 

S そうですね、私には妻と3人の子どもがいるのですが、上の息子二人はアメリカで育っています。

 

一番上の息子が小学生に入るタイミングでアメリカは銃の問題もありますし、どうしようかと考えました。ニュージャージーはアグレッシブと言うか、叫びながら運転しないと安全に運転できないんです(笑)

みんな我先にと行くので、止まって「いつ行こうかな」と思っていると、ずっと行けないんですよ。(笑)

 

自分一人だったら気になりませんが、そうした環境下で家族と子供を育てるのはストレスに感じるなと思ったんですよね。

そしてそのタイミングで父が病気になったりということも重なり、では「ちょっと日本でやってみようか」ということで日本に戻ってきました。

 

 

 

DataRobotの製品に惚れ込んだ。

 

 

―そして日本に帰国後、すぐにデータサイエンティストとしてのキャリアをスタートしたんですか?

 

S いえ、帰国後最初の1年くらいは日本の自宅からスティーブンス工科大学でリモート授業で教えていたんですよ。

でも時差の関係で昼夜逆などいろんなコミュニケーションがとりにくいということもあり、はじめての転職となる外資系保険会社で働くことになりました。

それが私のデータサイエンティストという肩書きをもらった初めての仕事です。

 

 

ちょうどデータサイエンスのチームを作っていこうというところで、私が二人目のメンバーでした。

今までやってたことを応用できれば業界なども特に気にせず、チームビルディングやデータサイエンスをやるということに興味があったので、これだけ楽しい場を作ってくれるんだったらいいんじゃないかとそこに決めたんですよ。

 

 

私は日本の若者たちが活躍できる場を作りたいという思いを強く持っています。

だから当時も東大や東工大の学生たちをインターンで呼び、ジュニアデータサイエンティストに育て、そのまま入社する子もいれば、それぞれに当てはまる企業に就職して「ここでインターンをさせてもらえたから就職ができた」と言ってもらえたりして、そういったことができたのがとても楽しかったですね。

 

その後現職であるDataRobotに転職をしました。

 

 

ー以前一度お話ししたときに、坂本さんが「DataRobotの製品に惚れ込んだ」とおっしゃっていたのを思い出しました。

 

S はい、こんな面白い製品を作っているんだったら入りたいって思ったんです。

もうすぐ3年になりますが、まだ3ヶ月ぐらいしかやってないような気がします。

 

 

ー それは、今の仕事が楽しいからでしょうか。

 

 

はい、私は今の仕事が大好きです。

DataRobotの製品は本当に日々進化するんですよ。だから今も新鮮なんです。逆にこっちが追いつけなくて困ったりもするくらいです。笑

でも、自分使い方がわからないと売れないじゃないですか、だから日々勉強しています。

 


次回は現在坂本さんが所属されているDataRobot Japan株式会社についてや、

優秀なデータサイエンティストになる方法などについてうかがっていきたいと思います。

お楽しみに!